2011年8月
北沢洋子
1. エジプトの対外債務の歴史と現状
現在、エジプトの対外債務は、344億ドルである。毎年の返済額は、25億ドルである。これはGDPの2.8%にのぼる。一方、政府の保険衛生予算はGDPの2.4%に過ぎない。エジプトのGDP総額は、894億ドルである。エジプトの主な輸出品は綿花と石油など一次産品である。
エジプトの債務の歴史は、1800年代、モハメド・アリ国王の時代に遡る。国王は、役に立たない、巨大なプロジェクトのために、外国から借金をした。しかし、これらプロジェクトが完成することはなかった。債務を返済できないために、エジプトの債務はどんどん膨らんでいった。エジプトが借りた相手は大部分英国であった。英国は、これを口実にして、その後エジプトを50年間、占領状態に置いた。
1952年、王政を倒したナセル大統領時代には、資本の蓄積をはかり、債務レベルを
下げた。しかし、1970年、ナセルの死後、後を継いだサダト時代に、債務が膨れ上がり、10年間、すなわち1970年代末には、5倍になった。
この時代、先進国の銀行が、安い金利で途上国に洪水のように融資をした。その後、金利が高騰し、途上国が輸出する一次産品の価格は下落した。そしてメキシコ政府を始め、途上国政府が債務不履行に陥った。
さらに、1981年、ムバラク大統領時代に入ると、2国間債務についてパリ・クラブと「債務返済延長(リスケ)」について交渉した。その代償としてエジプトは、IMFの改革(予算削減、国営企業の民営化)を受け入れた。
エジプトは、とくに上エジプトや農村地域で、17%もの絶対的貧困層を抱え、失業、重い債務に苦しめられている。さらに、エジプトは、国内債務の比率が高い。IMFは「債務の持続可能性」の計算に際して国内債務を除外している。しかし、2006年9月、すでにエジプトの国内債務はGDPの90%に上っていた。しかも3年ものの国債の利率は13.35%である。
世銀の債務帳消しの基準では、エジプトは「中所得国マイナス」である。したがって、IMF・世銀の「HIPCイニシアティブ」や、「多国間債務救済イニシアティブ」の対象にならない。
今年のドービルでのG8サミット直前に、世銀とヨーロッパ開銀は、エジプトに60億ドルの融資を決定したと、発表した。米国もまた、エジプトの債務の10億ドル分を帳消しにすると、発表した。これには、帳消しで浮いた資金を、米政府が指定する雇用増進プログラムに充てなければならない、という条件がついていた。
G8サミットでは、米国の呼びかけにもかかわらず、G8の中で、呼応する国はなかった。英国は、エジプトに1億ポンドの債権を持っているというが、これは英国がエジプトに売った武器に代金である。
2008年、エジプトのGDP成長率は、7%を記録した。しかしこれを打ち消すように、青年の失業率は20%に上った。
ロンドンの「New Economic Foundation」によれば、すでに、2007年、エジプトは、保健衛生、教育、インフラに投資し、さらに、1日3ドル以下の貧困を根絶するためには、債務の62%を帳消しにする必要があると試算している。
2. エジプトはIMF融資を拒否
「アラブの春」以後のエジプトは、新憲法にもとづく総選挙が施行されまで、暫定的に「上級軍事評議会(Higher Council of the Armed Forces)」が事実上の政府として機能している。エジプト政府は、最初にIMFに30億ドルの融資を要請したが、その後、6月、3週間に及ぶワシントンでの交渉の末、これを断った。これは、エジプトの革命の今後にとっては苦しい選択だが、良い兆候である。
エジプトは、70年代のサダト時代から米国、IMF寄りの政策を採ってきた。腐敗した政府は、西側の銀行から借金し、対外債務を増やしてきた。しかし、その借金の中で、大きな額が、ムバラクとその取り巻きによって、スイスの銀行に還流されていたのだ。
エジプトの人民は、これらの借金の返済ばかりでなく、IMFが押し付けた構造調整プログラムに苦しめられてきた。これが、「アラブの春」の起因となった。
西側の銀行やIMFにとって、「アラブの春」はサプライズだった。しかし、あまりにも早くムバラク政権が退陣してしまったので、対抗手段をとる暇もなかった。そこで、IMFは、30億ドルの融資を承認した。これには、「条件(構造調整プログラム)」が付帯していない、利子が安い(2.5%)ということだった。さらに、その融資分は、①エジプトの財政の赤字(11%)を埋める、②最低賃金を2倍に引き上げる、③社会保障を向上させる、④累進課税を導入する、などに使われるという好条件が盛り込まれていた。
このような「低金利」、「条件なし」という寛大なIMF融資は、ロシア、エクアドル、アルゼンチンのように、エジプトもIMF債務を一括返済することによって、IMFの支配下から脱出しようということを防ぎ、エジプトを永遠にIMFに繋ぎとめようとするものだった。
Sameh Sadeq将軍は、エジプト政府に対して「IMFの5つの条件(債務返済、緊縮財政、補助金撤廃、民営化、規制緩和)」は国家の主権を侵害し、将来世代に重荷を残すことになる」ので、融資を辞退すべきだと伝えた。
そこで、エジプト政府は、「低利」で「条件なし」というIMF融資を断った。代わりにSamir Radwan前蔵相は、カタールとサウジアラビアに対して、融資の肩代わりを要請した。カタールは、7.5%という高利で融資を提起したが、交渉の末、4.5%に引き下げられた。また、サウジアラビアは、エジプト革命に対して独自の考えを持っていた。IMF・世銀は、この動きに不満だった。そこで、世銀は「エジプトに対する新しい金融計画を検討している」と発表した。
エジプトがIMF融資を断ったというニュースは、ワシントンを驚かせた。たちまち、上院議員のJohn McCain、Joe Liberman、John Kerryの3人がカイロを訪問し、米議会がチュニジアとエジプト革命に対する贈り物として「経済援助基金」を設立することを伝えた。McCain議員は、大統領選挙の際、「イランを爆撃せよ」と叫んでいたし、Liberman議員は戦闘的なイスラエル支持者である。エジプト政府は、これら議員たちの贈り物に惑わされることはなかった。
次にカイロを訪問したのはマレーシアのMahatir Mohamed元首相であった。彼は、1997年、投機家たちが暴れた「アジア金融危機」に際して、マレーシア通貨を凍結し、IMFに頼らないで経済を再興したという実績がある。マレーシアは、他のアジア諸国より早く、危機を乗りきることが出来た。Mahatirは、「我々は、IMF・世銀に依存しなかった。それは経済決定については独立であるべきだからだ」と、エジプト政府に忠告した。
エジプトは、「汚い債務」と呼ばれる債務の返済を不履行にすべきである。すでに2003年、イラクを占領した米国の圧力で、フセイン大統領時代の債務を帳消しにした。エクアドルも自ら、国際法にもとづいて、債務を不履行にした。ギリシアでは市民たちが、「汚い債務」を規定するために「監査委員会」を設立した。
チュニジアも、10億ドルの資金が、今年の予算の赤字と、経済安定化に必要である。これは世銀、ヨーロッパ開発銀、アフリカ開発銀から借り入れた。しかし、IMFには駆りようとはしなかった。